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1.能登の歴史と文化
小木は、国定公園能登半島の奥能登の富山湾に面した、能登町の東部に在ります。人口は四千人余りで、多くの人が漁業と関わっています。
当地は古くから人が居住し、近くの真脇地区では、縄文時代の大規模な集落跡が発見され、今も発掘作業が続いています。
中世には、日本海に突き出た地形から、渤海(ぼっかい)国使節団の出入りに利用されることがありました。
小木の港は小木港を中心に、本小木港、九十九湾の三港で構成します。小木港は港湾設備が整った中心港で、本小木港は小型船の専用港、九十九湾は常に波静かで、大小の船が停泊港として利用します。
小木港と本小木港の本格的な開発は昭和に入ってからで、それまでは九十九湾が港の中心でした。特に藩政時代から明治期にかけては北前船の波待港として知られ、当地を訪れた文人は 「能登の東海岸の小さな港は、いつも和船の帆柱で埋められるやうな光景を呈した…」と記しています。
また、港に面した小高い丘は日和山と呼ばれ、海とのつながりを地名に残しています。小木の春は御船神社のとも旗祭が告げます。とも旗とは紙製の巨大なのぼり旗で、その旗を二隻の伝馬船を連ねた、とも旗船と呼ぶ船の中央に立て、小型漁船が港内を曳き廻します。
祭りのクライマックスは、賑やかに大漁旗をまとった中型イカ釣漁船が、神輿を乗せた御座船を曳航し、その後にとも旗船が一直線に連なり、港内を巡航します。 神輿が海上渡航する祭りは珍しく、港内を巡航する様が圧巻であることから、県から無形民俗文化財の指定を受けています。
2.小木の水産業
小木の漁師は古くからタラ漁に優れ、他所に比べて産卵前で美味しいものが獲れました。村の代表は特別に雪漬方法で加工したものを藩主に献上し、更に藩主から将軍家へ献上される事もありました。その為、大きな漁場をタラ漁用に藩から与えられていました。当時はタラ漁をタラ場といい、大変な作業である事から、地元の人々は若い漁師を「タラ場の水夫になれば一人前」と、云いました。また、タラ漁の餌としてイカが適したことから、盛んにイカ漁も行われました。
なお、餌として一度海を潜り残ったイカを「いさぶ」と呼び、食用としました。現在タラ漁は行っていませんが、独特な風味があることから、町は海洋深層水を利用した、新しい時代の「いさぶ」を開発し、町の特産品にしています。
また、イカを用いた魚醤「いしる」は、香ばしい味が好まれ、奥能登の自然食品の調味料として珍重されています。
3.小木のイカ
明治になると、小木の漁師は長年培った漁の腕を生かし、新しい漁場を開拓すべく北海道を目指しました。初期には道南を中心に、後年には道東まで足をのばしイカを追いました。
その後、サケマス漁を営む者が現れましたが、サケマス漁期以外はイカを追い、イカ漁を裏作と呼びました。
戦後は、漁船の大型化・機械化・冷凍技術の発達が進み、更には能登半島沖で好漁場 「大和碓」が発見されるに至り、大きな躍進を遂げました。
更に、昭和40年代後半には冷凍能力を持った、99t型の中型イカ釣専業船が現れ、小木港の水揚げは最盛期を迎え、日本海側有数の漁業基地に数えられました。しかしその後、オイルショック・200海里操業規制等の影響を受け、厳しい時代が続いています。
苦境を脱すべく、昭和50年代半ばには数隻の中型イカ釣船で船団を組み、赤道を越えオーストラリア海域で、冬期間の試験操業を行いました。2年余りで撤退しましたが、小木の漁師の開拓者魂を示す出来事でした。
また同時期に、現在の小木のイカ釣漁の中心となる、船内一尾凍結の技術を開発し、「小木の船凍いかは生に劣らず美味しい」と、消費者に喜ばれています。
今後も漁業を取り巻く環境は TPP・大震災からの復興・若者の魚離れ等、大しけの模様ですが、海にイカがいる限り、小木の漁師はイカを獲るのを天職と考え、大海原を渡っていくでしょう。